先天性女ロイ連載その2です。
苦手な方はご注意くださいませ。
ACT/2
恋をしている。
バタンと軍用車の扉を閉めて、キイを回してロックする。目視でも確実に施錠されたことを確認してから踵を返した。
殆どの人間が羨望の眼差しを向けるだろう、スラリと伸びた長い脚で大股に玄関の扉までの距離をつめる。
そうしながら口に銜えていた煙草を携帯灰皿に落としてしまう。
今から対面する上官は喫煙に関してはかなり寛容ではあるが、それでも朝一からけして心地よいとはいえない煙の匂いがついてしまうのは嫌だろう。
というのは建前で、相手を気遣って、というよりは自分が嫌なのだ。あの美しい黒髪に無粋な匂いが移ってしまうのが。
とはいえ、一日中禁煙することは不可能なので今このときのみの、瞬間禁煙ではあったが。
そして辿りついたドアの前で、腕に巻いた時計の文字盤に目を落とした。時刻は、7時半。
今日の上官のシフトは自分と同じで早番、9時から18時の予定だ。一時間以上前に迎えに来るというのは、送迎のみの観点で言えば早すぎる時間だ。なにしろここから司令部までは車でものの10分もかからないのだから。
だが、彼には送迎のほかにも重要な任務があり、それをこなすためにはこの時刻がベストなのだ。
文字盤から目を離して、今度は呼び鈴に手をかけた。一度押せば、キンコーンと、お馴染みの音が響く。そして中からの返事を待たすに、もう一度。繰り返される音を聞いて、軍靴のつま先をカツ、カツ、と鳴らしてカウントを取る。きっかり15回そうして、その後にもう一度呼び鈴を押す。
それが二人の合図だ。
「…恋人同士みてえ」
ポツリ、と零れた呟きは無意識だったのだろう。男は自分のその声に驚いたかのように、眼を瞠り、次いで自嘲気味に唇を歪めた。
「……ありえねえ、な…」
その声は誰かが聴いていれば、思わず抱きしめて慰めてしまいそうになるほど切なく悲しい響きで、けれど周囲には誰もおらず、その声は朝の大気に溶けて消えてゆくだけだった。
『…ハボックか?』
そこで不意に聴こえた声に、男…ジャン・ハボック少尉は沈みかけた思考を引き戻された。そして今までの思考を振り切るようにひとつ頭を振ると、扉の向こうに向かって声をあげた。
「おはようございます、マスタング大佐。ジャン・ハボック少尉お迎えにあがりました~!」
殊更に明るく、先ほどまでの自虐も悲しみも全て覆い隠して、ハボックはドアが開かれるのを待った。
「大佐、今日の卵はどうします?」
「…目玉焼き、半熟で」
「了解ッス」
答えてハボックは手に持っていた卵を、見事な手つきでフライパンの中に割り落とす。合計4個の卵がじゅう、と音をたてて白く色を変えていくのに手早く塩と胡椒をふる。
この時少しだけ胡椒を強くするのが、上官の好みだ。
香ばしい香りが少ししだしたところで火を弱めて、水を少量たらす。じゅわ、と小気味いい音をたてるのに蓋をして、トースターに厚めにスライスしたバゲットをほおりこんだ。
一連の動作は実になめらかで、彼がこういった作業に慣れていることを示していた。
それと同時に、このキッチンにも慣れていることも。どうしてもキッチンというのは、そこに親しむ人種にとっては己のテリトリー以外のもの、というのは扱い辛いものだ。
道具ひとつ、調味料ひとつ置く場所が異なっても違和感を覚えて、動きがぎこちなくなる。
だが、現在ロイの自宅キッチンで動き回るハボックの動きにはぎこちなさなどひとつもない。それはひとえに、ロイの自宅の一部でありながら、このキッチンは既にハボックのテリトリーと化しているということだ。
それほど、ハボックがロイの日常に入り込んでいるということでもある。
ハボックの重大任務、それはハボックのたった一人の上官であるロイ・マスタング大佐の食生活の充実である。女性ながらに大佐の地位についている彼女は、優秀な軍人であると同時に、優秀な錬金術師であるのだがいかんせん生活能力が著しく欠落していた。
護衛についた当初は、仮にも女性の、しかも上官の私生活に踏み込むことはどうかと流石のハボックも考えたものだが、ある日とうとう堪忍袋の尾が切れてマスタング邸のキッチンに踏み込んだのだった。半強制的に始まったことではあるが、その後はロイの副官であるリザ・ホークアイ中尉からの承認も得て…時として彼女の承認はロイの意志よりも力を持つ…今では状況が許すかぎり、こうしてハボックはロイの為に腕をふるう日々だ。
部下として、上官のために、だ。あくまでそれ以上の意味はない。…持たせられないでいる。
そしてハボックは澱みない動作で大きな冷蔵庫を開けて、フルーツを取り出して皮をむき食べやすくカットする。
そこまでしてから、ふたたびフライパンに向き直って蓋を外すと卵の黄身が白い膜を被っていた。そのままフライパンを揺らすと、ふる、と震える様から頃合だと判断して、並べて置いておいた皿に、半分に切ったそれを盛り付ける。
空いたフライパンにベーコンをいくらか乗せたところで、トースターが軽やかな音をたてた。
「大佐ぁ、バゲット焼けましたよ~」
今ちょっと手が離せないんでお願いします、と振り返らないままに声だけかければ、仕方がないな、と呟きが聴こえてきてトースターの扉を開ける音がした。
「あ、火傷せんで下さいよ、熱いですか」
「アッ、」
ら、と続けようとした瞬間に小さな悲鳴がして、ハボックは慌てて振り返った。
するとトースターの前で驚いたみたいに指を引いたままで、固まっている上官の姿。
「大佐、大丈夫ですか!」
慌てて駆け寄ってみれば、右手の人差し指の皮膚が赤く染まってしまっていた。
「あああ、アンタなに大事な商売道具に怪我してんすか」
「ちょっ、ハボック!」
目を瞠ったハボックは、有無を言わさずロイの右手を掴んでシンクに突っ込む。勢いよく出した水で己の手ごと、赤くなった指先を冷やしたところでようやくハボックは息をついた。
「アンタね…気をつけてって言った矢先からなにしてんですか、もう…。しかも利き手ですよ…アンタの命綱なんですから大事にして下さい」
じゃあじゃあと音をたてて流れる水に晒された指先は素早い対応が功を奏したのか、僅かに赤みを帯びた以外変化は見られなくて、ハボックは良かったと息をついた。
この分なら水疱が出来ることもないだろう。この白くたおやかな指先は、自分達にとってのトリガーと同じだ。
僅かに指先を擦り合わせるその動作ひとつで、あの美しい焔を生み出す指先だ。ハボックにとっては自らの命よりも大切な指先。ロイが行使するその力はそのまま、ロイを護る力だ。
だから大事だ、何よりも。
もう充分だと見て取って、水を止める。それでも念には念をと掴んだ手を、自らの目の高さに引き上げた。
じい、と見つめて検分する。
やはり僅かに赤らんでいるだけで、とりあえず支障はないだろうと判断できた。
「まあこんなもんっすかね。多分そんな酷いもんじゃあないと思うんですけど、もしかしたら湯につけたりすっと痛いかも、です」
「ハボック」
安堵に思わず小言じみた言葉が口をつくが、至極尤もな宇検だろうと判断して、ハボックはそれを遮るように自分の名を呼ぶロイの声には答えない。
「もっと気をつけてくださいよ、アンタ以外に不器用、」
「ハボック!」
「なんです、言い訳なんて聞きませんよ、朝っぱらからこんな怪我するほうが」
「…っ、やかましいわこの馬鹿者っ!お前こそいつまでも人の手を握り締めてる暇があったらそのフライパンを何とかせんか!」
「いだっ…ってああああ!」
握り締めていた手とは反対のそれに結構な力を込めて、横っ面に食らった一発に、思わず掴んでいた手を離す。
さっと引っ込められた手を、思わず名残惜しげに見送ったときにようやく鼻を刺す異臭に気がついて振り返れば、もうもうと煙を上げているフライパンが。
「だあああああっ!」
「…私は知らんからな。お前、それ責任もって片付けろよ」
「…イエス・サー…」
がくりと肩を落として見つめる先には真っ黒になった、かつては塩付け肉だった物体。
焼かれて、焦がされて為す術もなく最後には固く真っ黒になってしまった物体が今の自分に酷似している気がして、切なかった。
「今日はヒューズが来るからな」
そういえば、と思い出したようにロイがそのことを口にしたのは用意された朝食をあらかた片付けて、バゲットの最後の一切れを口に放り込んだ時だった。
「へ…そりゃまた急っすね…」
真っ黒にこげたベーコンを何とか流し込み、口の中に残る苦味に眉を顰めてハボックは相槌を打つ。眉を顰めた理由は、本当はそれだけではなかったが、あまり考えたくはない類のことだったので全てを焼け焦げたベーコンのせいにした。
「夕べ電話があった。最近ひっとらえた麻薬の売人がいただろう?念の為に中央に照会を依頼していたのだが、どうやらアイツは中央の組織とも関わりがあったらしくてな。身柄を引き取りにくるそうだ」
「中佐がわざわざ?」
「他人に任せるより自分が来たほうが早いそうだ。まあ、どうせ仕事にかこつけて呑みにでも来るんだろうさ。東部の酒は奴の好みだから」
経費で旅費が落ちると思って勝手なやつだ、と呟くロイの言葉を訊きながらハボックはアンタに会いにくるんでしょうよ、という言葉を飲み込んだ。
代わりに空になった皿を手に取るとシンクに運び、棚からコーヒー豆を取り出してメーカーにセットする。きちんと手づからドリップしたほうが美味いことはわかっているが、時間のない朝は致し方がない。
こぽこぽと音をたてながら薫り高い琥珀の液体が満ちるのを待つ間に食器を片付ける。
「じゃあ明日の朝は迎えはなしで?」
「ああ…そうだな」
想像していた通りの答が返ってきて、わかっていたことなのに気落ちする自分を感じてハボックは自嘲する。ヒューズが東部に来訪する際はいつもロイの自宅に泊まっている。独り身の女性の自宅に男性であるヒューズが泊まるなど、常識で考えればありえないことだ。ヒューズが既婚者であることを差し引いても普通はその関係を疑って当たり前のことである。
だがあまりにも堂々とした二人の態度に、周囲も口を噤んでいる状況だ。
ハボックは、といえば、ヒューズからロイと自分の間には何もないと聞かされている。ヒューズは自分とロイの間にあるのはあくまで友情でしかない感情だと穏やかに笑んでハボックに告げた。
そうしか出来なかったのだと、どこか切なげに。
その言葉に今はどうあれ、ヒューズはロイに対し…いや、ロイがヒューズに対してなのかもしれないが、何かしらの感情は抱いていたのではないかとハボックは感じた。ハボックの目から見ても、二人は似合いに見えていたし、今は結婚もしているヒューズではあるが、出会いはロイとの方が奥方よりも早かったことだろう。何しろ彼らは士官学校からの腐れ縁だと聞いていたから。
友情が愛情に変わる機会も時間も充分にあったはずなのに、出来なかった、とヒューズはハボックに告げたのだ。
出来なかったと。
その言葉をどういう意味ですかと訊き返す前に、ヒューズがポケットから取り出した大量の愛妻と愛娘の写真に遮られて、ハボックはその意味を知ることは叶わなくなってしまった。
過去はどうあれ、ヒューズの家族に対する愛情は強く、そんな彼が家庭を裏切ってロイと関係を持っているとは流石にハボックも思わない。
だが実際に関係を持っていなくとも、ヒューズの心で決着がついた過去の話なのだとしても。
ロイは、どうなのだろう。
ロイの気持ちは、こころは。
ロイに特定の恋人がいないことは知っている。そんな人物がいれば、まずこんな風にハボックがロイの領域に入り込むことは許されなかっただろう。だがそれは、ロイが誰か…ヒューズを思っていることの証明ではないのかと、ハボックは疑ってしまう。
下種な勘繰りだとわかっていても止められるものではなかった。つまるところは嫉妬だ。どんな形であれ、ロイの特別を占めているヒューズにハボックは嫉妬しているのだ。
「ハボック?」
訝しげな声に意識を引き戻されて、ハボックは身を固くした。どこかうわの空のハボックを伺うように見つめるロイに、すいませんぼんやりしてました、と謝る。
メーカーを見れば既に珈琲は充分に落ちていて、部屋中をかぐわかしい香りが満たしている。まだ伺うようにこちらを見つめているロイに笑いかけて、ハボックは用意していたカップにそれを注ぐとロイに手渡してやった。
「はい、熱いですからね」
ロイがカップを手にしたのを確認して、同じ手に持っていた角砂糖を入れてやる。
三分の一ほど飲んで、残りにミルクを足してカフェオレに変えるのがロイの朝の珈琲の愉しみ方だった。
ハボックを伺うようにしていたロイも、淹れたてのそれに意識を映した。
ひとくち口に含んでそして先ほどの続きを口にする。
「今日の五時着の列車でこちらに来るらしい。すまないがハボック、奴を迎えにいってくれ」
「イエス・サー…じゃあ大佐の帰宅時の送迎は…まあ必要ないですかね、二人で呑みに行くんでしょう?」
そう口に出して、次の瞬間にはハボックは己の言動を悔いた。何時もの予定の確認のつもりで口にしたが、聴きようによっては皮肉とも取られかねない。いや、取られかねない、ではなくそう取られてしまっても仕方がない。
実際に、ハボックはロイとヒューズに嫉妬しているからだ…けして意図して話したわけではない言葉に含まれた感情は無意識だからこそ正直で真直ぐに伝わってしまう。
まずいな、とハボックはロイの様子を伺う。
「…そうだな、そうなるだろうな…全くいつもいつもアイツは人の懐を当てにして…ハボック、今日はお前も真直ぐ帰れ、たまにはいいだろう」
だがロイはそんなハボックの険には全く気がつかなかったようで、手にしたカップを傾けて少し考え込むようにしたかと思うとハボックにそう告げた。
こくりともう一口珈琲を飲み込んで、減ったかさの分だけ、ハボックの用意した温かなミルクを注ぎ込むロイの仕種は全くいつも通りのものだ。
それを確認して口元に寄せたカップの影で、ハボックは安堵と落胆の入り混じった息をついた。
ロイはきっとハボックの心など知らない。
知る必要もない。ロイの心はきっとハボックにはないのだから。
ロイはハボックがヒューズに対して抱く蟠りや、二人の関係に持つ疑惑や懸念を許さないだろう。たとえそれが懸念ではなかったとしても。
いや、懸念でなければなおさらで、ましてや嫉妬しているなどとは言語道断でもある。
こうして、ロイの領域に脚を踏み入れていてもそれ以上を許されているわけではない。あくまで自分はロイの部下で、ロイは自分の上官で二人の間にはそれだけの繋がりしかなく、そこに変化は産まれない。望んでいても、望まれているわけではないのだ。
嫉妬など、する権利すらハボックにはない。
そっと視線を落とせば、白い首筋が朝日に暖められてほんのりと上気している。
衝動的にそこに口づけたいと思った自分を戒めて、ハボックはカップの中身を口に含んだ。
「にが…」
呟きは、湯気に溶けた。
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