先天性女ロイ連載その3。
苦手な方はご注意下さい。
ACT/3
口づけを下さい。このふるえる胸に、どうか。
「よう!ハボック少尉わざわざすまねえな!」
時刻はイチロクサンマル、昼食もすっかり消化されて小腹がすいてくる時間だ。
ハボックも例に漏れず、くう、と鳴る腹を抱えながらバタンと軍用車のドアを閉めた。
まるでそれを待ち構えていたように背後からかけられた声に、ハボックは目を瞠って振り返った。
「ヒューズ中佐!どうしたんです、5時の汽車で来られる予定じゃなかったんですか」
「いやあ、たまたま一本はやいのがまだ空席があったんでな、つい乗ってきちまった。お前サンのことだからギリギリに来るってことはないだろうって当てにしてたんだが、予想通りだったな。ありがとよ、少尉」
言いながら屈託なく笑ってヒューズは足元の鞄を持ち上げて近づいてくる。あ、スンマセンとハボックが荷物を受け取るために差し出した手を、空いているほうの手でポンと叩いていいから、いいから、と言ってさっさと車に乗り込んでしまった。
ごそごそと後部座席のシートの上で腰の落ち着け先を探している、中央の有能な情報将校でロイの親友である彼のそんな姿に、ハボックは小さく笑うと自らも運転席に乗り込もうとドアに手をかけた。
「どした?ハボック少尉」
と、その手が止まったことに気がついたヒューズが訝しげに声をかけたことで、ハボックはようやく視線をヒューズに向けた。
「…スンマセン、中佐。ちょっとだけ時間貰っていいっすか?すぐ済みますんで」
「あ?そりゃ別にかまわないが一体どうしたって言うんだ」
「ちょっと知り合いがいるんで。ホント少しだけッすから、待っててください」
「知り合いって…おい、」
すぐですから、と言いおいて身軽に走り出すハボックの背中をあっけにとられて見送る。彼が長いコンパスの先で向かうのは、今しがたヒューズが出てきた駅の入り口近くの大きな時計のようだ。
何かの記念に造られたと聞いたことのあるそれは、解りやすい待ち合わせの場所として人気のようで、今も数人が人待ち顔で時計を覗き込んだり身だしなみを整えたりしている。その中に知り合いでも見つけたのだろうか、と目で追えばハボックが近づいていったのはひとりの少女だった。
ヒューズは僅かに目を瞠った。
淡い金色の髪をしたまだあどけなさを残した少女。ほっそりとした彼女の手には、数本の花がある。そのほかには何も持たない彼女はヒューズの目には到底ここで待ち合わせをしているようには見えなかった。
言い方を変えれば、人待ちであることには違いないだろうが。
ハボックに気がついた少女はにこりと笑う。親しげなその様子に僅かにヒューズは眉根を寄せたが、離れた場所にいる二人が気づくはずもない。ヒューズが見つめる先で二人はいくらか言葉を交わしていたが、やがて軍服のポケットに手を入れたハボックが、彼女の手のひらに何かを落とした。
おそらくは硬貨だろうそれを乗せられた手のひらを、少女は困ったようにすこし悲し気な笑みを浮かべて見ると、手に持っていた数本の花をハボックに手渡して、顔をあげるとハボックに笑いかけた。
先ほど手のひらの上の硬貨を見つめていたときとは違う、屈託のない明るい笑顔だった。
笑いかけられたハボックも同じような笑みを返している。
そろそろ低くなった日差しの中で、二人の異なった色合いの金色の髪が光を反射して綺麗だった。他人から見れば初々しい恋人同士のように見えるだろう、笑いあう少女と若い男はまるで映画のワンシーンのようだ。
笑いあっているのに、どこか悲しい二人の瞳が余計にそう思わせるのかもしれないけれど。
やがてハボックは小さく少女に手を振って踵を返すと小走りで戻ってきた。手には可憐な花を持って。
「…コスモスか」
大きなハボックの手が持っているのは、秋口によく見かける花だ。可憐で儚い印象とは裏腹にひどく生命力が強くて、人が手をかけて世話をしなくてもよく育って、様々な色の花弁を広げる。
今ハボックの手にしているのは、花弁が淡い桃色のものだ。別段珍しくもないそれは今の季節であれば花屋に行かなくても手に入るだろうもの。
「ピンクのコスモス。…花言葉は乙女の純潔、だったか」
じっと、ハボックの手にしたそれを見つめながら聞かせるともなく呟くヒューズにハボックは困ったように笑って見せた。
勘のいいヒューズは、どうやらハボックが先ほど話していた少女が、なにを生業にしているのか理解しているようだった。
「……乙女の純潔を、買いませんかってことか?少尉」
皮肉なもんだな、と眼鏡のレンズの向うからペールグリーンの瞳がハボックを射抜く。情報将校であるヒューズは滅多なことでは自身の感情を悟らせない。だが今はその瞳からはっきりとした怒りと非難の色が見てとれた。
「で、お前サンはあの娘とどんな知り合いなんだ」
ヒューズとて、ハボックがあのような少女をそういった意味で求めたことなどないことを疑ってもいない。ハボックはそういった男ではけしてなかったし、第一、そんな下卑た人間であれば彼の親友は傍に置いたりなどしなかっただろう。そういった意味ではヒューズはハボックも、彼以外のロイの部下達のことも信じている。
だからヒューズが責めているのはそのことではない。
「…お前サンがああやって花を買ってやって、それが彼女のなんになるってんだ?」
お前サンは今夜の彼女のしのぎを奪っただけじゃねえか。
度の入ったガラスに誤魔化されて普段はわかりづらい、ヒューズのきつい眼差しがハボックをにらみつけた。
ヒューズの非難はハボックにもわかっている。アメストリスには売春を咎める法はなかった。
それが強要したものであったり、年端もいかぬ幼いものに対するものであったり、そういった場合は、勿論裁かれる。が、本人の意思の元行われた行為であれば、それを咎めることは出来ない。それほどアメストリスは豊かな国ではなく、治安も安定しているとは言いがたかった。売春は力のない女性達の生き抜く術だったし、生きるためにそれを行う彼女達を、すべからく救う力のないものが咎めたてるなど、傲慢と自己満足以外のなにものでもなかった。
ああやって客引きをしている以上、彼女は娼館に所属はしていない街娼なのだろう。自由と引き換えに、最低限の衣食住が保障されている者達とは違い、自分の体一つがまさに日々の糧となる。
居住する場所を持っているものが稀なほどだとも聞く、それは誇張ではなく真実だろう。だから彼女たちが自分の体を差し出して求める対価は金銭と、男の肌という一晩の寝所である場合も多い。
そして彼女達がその、道から抜け出すことは困難だった。街娼の悲しい末路を腐るほどにヒューズは見てきた。その彼女達の運命にヒューズとて心が動かないわけではない。けれど、半端に差し出す手は、彼女達をもっと哀しい運命に導くだけだ。
彼女達に差し出せるものがあるとすれば欲を纏った肌と、快感の対価としての金銭。そうでなければ彼女達の生涯を抱きしめる腕だ。
「中佐の言いたいことはわかってるつもりです。俺には彼女をあそこから救ってやる力なんてない」
「じゃあお前のあの行動は何だ。偉そうに彼女を帰して。あの子だったら、結構な額を出す野朗も多いだろう、どれだけ渡したのかしらねえが飯何回か食ったら終わりだろう?…少しでもあの子が楽になるならなんて反吐が出そうなこと考えてるんじゃないだろうな」
「……中佐」
「……言い過ぎた。すまん」
常にない様子でハボックを詰ったヒューズは、ハボックの静かな呼びかけにようやく冷静さを取り戻したかのように、小さな声で詫びる。だが表情は堅く、心中の憤りを如実に現しているようだった。
ヒューズが苛立たしげに、小さな舌打ちを漏らした段になってハボックは懐から取り出した煙草を彼に刺しお出した。差し出されたそれに心なし目を見張ったヒューズだったが、極自然な動作で差し出された箱の中から一本抜き取った。口に銜えるとかしゃ、という音と共に大きな手に握られたライターの火が近づいた。
オレンジ色の火を点したのを確認して大きく吸い込む。久方ぶりに喫煙に灰は驚嘆したようだったが、構わずに奥まで浸すように煙を呑んで、そして大きく吐き出した。
その横では、こちらも慣れた仕種でハボックが煙草に火をつけたところだった。しばらく、無言で煙草を味わう。
「…アンタが怒るのも無理ないとは思います。俺がこんなことしたってなんにもならない。…彼女を愛してるわけでもない」
聞きようによってはひどく酷な言葉を静かな声でハボックは話す。もって生まれた色彩のおかげか、どこか軽薄に見えてしまうこともあるハボックは、その実稀有なくらいに誠実な人物だ。その人柄を示すような声に、ヒューズは無言で続きを促した。
「…俺が彼女に会ったのは、大佐の下に配属になってすぐです」
言いながら、その青い瞳を瞼の奥に隠してハボックは俯いた。
過去を悼む様な表情だと、ヒューズは思った。
「…いい男だな、少尉は」
「いきなりなんだ、ヒューズ」
親友が久方ぶりに東方に訪れるのだからと、当初の予定通りにつつがなく一日の業務を終え、ロイはヒューズを自宅に招きいれて恒例ともなった酒宴を開いていた。
普段はサイドボードにきっちりと収められた、高価な酒が惜しげもなくふたりの間にあるローテーブルの天板に並べ立てられている。
あたり前のようにそのいくつかは空になっていて、だというのにロイもヒューズも顔色一つ変えていなかった。
アルコールを水のように摂取する人間が闊歩する軍内において酒豪の名をほしいままにしているのも頷ける風情だった。それでもアルコールの効用はそんな人間にもかろうじて現れてくれるらしい。ヒューズは軽やかな声で楽しそうに笑っている。
「…確かにまだ青くさいところはあるがな。…うん、俺はああいうやつ好きだよ」
「やけにアイツを持ち上げるじゃないか」
「嬉しいだろう?この厳しい俺の眼鏡にかなったんだ、アイツなら大丈夫だってな」
ヒューズが手にしていたグラスをテーブルの上に置くのをロイはじっと見ていた。暖かい室内に冷たい液体の入ったグラスは表面にびっしりと水滴を纏わりつかせていて、それがヒューズの指先からまた滴り落ちる。
「なあロイ。お前アイツが好きなんだな」
疑問ではなく確定でヒューズはロイに告げた。同じように手に持っていたグラスをテーブルにロイも置いて、そしてようやくヒューズの瞳を見返す。
迷子の子供みたいだな、とその顔を見てヒューズは思う。
口さがない人間は男女であるがゆえにヒューズとロイの間の友愛を否定して下種な言葉を繰り返し吐き出してくれる。だが現実問題として、ヒューズとロイの間にそういった事実関係はなかった。
発展しなかった、と言ったほうが正しいのかもしれないとふたりは知っている。何か一つ歯車が違った動きを見せていれば二人の間にあったのは友愛ではなかったのかもしれない。
けれどふたりが選んだのはこの現実だった。
この未来しかなかったのだと思いたくはない。信じている、あの時の選択を。
「ロイ。俺は幸せになった」
あの戦場で、目の前の親友に降りかかった悲劇を、振り払うことはヒューズには出来なかった。ロイだけの手を取ることは出来なくて。
『幸福になってくれヒューズ。幸福にしてやってくれ、グレイシアを…私ではない、お前が幸福にするべき人は彼女だろう?私はそれが幸せだ…』
血と消毒と薬物の匂い。思い出すだけでこめかみが刺すように痛む光景。白く冷たい寝台の上に横たわっていた彼女の失ったものを思うだけで、真っ黒い闇に落ちていきそうな気すらするくらい。
「俺たちは近すぎたろう?お前の幸福は俺の幸福で、俺の幸福はお前の幸福だった。あそこで俺たちはお互いのことを運命共同体だって思ってた。勿論今だって思ってる。でもあのころは自分達が別々の人間だってことに気がついていなかった。近すぎた、そうだな?近すぎて近すぎて…だから俺はお前の手を離した」
「離すべきだったし、正しかったろう?お前もグレイシアも幸福になって、エリシアも生まれて…私も」
「嘘をつかないでくれロイ。俺は幸せだよ、確かに…グレイシアがいてエリシアがいて。これ以上ないくらいに幸せだ。でもお前はそうじゃない」
ひたりと、親友の黒い瞳を見つめる。真っ黒な触るとかちりと音がしそうな石をはめ込んでいるようだといつも思う。けれどヒューズはそこに横たわる傷跡を知っている。
「お前は今でもあそこに縛りつけられたままだろう」
ロイの表情は動かない。置かれたグラスの中の琥珀色の液体の表面のほうがよほど動きがあった。けれど、そっと彼女の白い手が下腹部を撫でたのがヒューズの瞳には映った。その下の、傷。彼女を襲った狂気を責める正当性は二人とも持ち合わせておらず。
受け入れるしかなかったあのときと同じ顔をしている。ロイもヒューズも。
「…私はお前に幸福になってほしかった」
「ああ。俺もお前に幸福になってほしいよ」
「…幸福だよ。グレイシアとお前の結婚式にも呼んでもらって、まったくにあっていないお前の花婿姿も見て、エリシアの小さな指も握らせてもらった。抱かせてもらった重さが、私は本当に幸せ」
「嘘をつくなといっている!!」
怒号と共にテーブルに叩きつけられた拳が、幾つもガラス瓶をなぎ倒した。耳障りな音をたてて、倒れたグラスの中から琥珀の液体が零れ落ちて、敷かれた柔らかな絨毯の上を滴っていく。
見る間に広がっていく染みに、ああ、これを見たらあいつが怒るだろうな…とぼんやりとロイは考えた。
どうしてくれる、こんなことをして。あいつはこういったことには嫌になるくらいにうるさいんだ男の癖に。
なにしてるんです、どうして零したらすぐに拭かないんですか染みになったら取れないんですよ、なんて大騒ぎをするんだ。うるさいなあもう、お前は私の母親かなんていい返してみろ。そうだったらどんなによかったことでしょうね、放任主義のあんたのおふくろさんに代わって、炊事洗濯家事一切を一からしこんでやりますよ、なんて生意気を。
そんなことを、怒った顔を一生懸命に作って、笑ってしまいそうになるのを必死で堪えて、がしがしと絨毯と格闘しながら。
優しい青い眼が柔らかく自分を見ていることなんてとっくにロイは知っている。
思いながらロイはヒューズと対峙している。
ヒューズが叩きつけた拳は、テーブルび押し付けられたままで、かたかたと酒瓶が小さく音をたてるのはその拳が小刻みに震えているからだった。
「嘘なんて」
鸚鵡返しのように返そうとするロイの反論をヒューズは厳しい声で遮った。
「嘘ばっかりだ。いいか、ロイ。幸福になったのは俺でお前じゃない。グレイシアが幸福にしてくれたのは俺でお前じゃない、エリシアが幸福にしてくれたのは俺なんだよ!お前は俺じゃない、俺はお前じゃない!俺の幸福はお前の幸福じゃない、お前は幸福になんてなってやしない!」
「お前が幸福なら…」
「いい加減にしねえか!お前の幸福は俺じゃない!」
ヒューズは常に明るく、そしてすぎるほどに冷静な男だ。
そのヒューズの常にない激昂は、空間すらふるわせるほどのものだった。彼が優秀な情報将校なのも頷ける。情報を引き出すために拷問は実に有効な手立てで、あたり前のようにヒューズは拷問の名手だった。拷問に必要なのは、加虐的嗜好ではなく最上級の冷静な頭脳と、そして相反するくらいの感情…他を圧する気迫。
そのヒューズが本気で激昂している。殺気ととっても間違いではないほどの気配が室内に満ちる。
ロイの手が再び下腹部を撫でた。朝方感じた痛みが甦ってくるようだった。感じるはずなどない痛みだ。
久方振りに感じたそれと、多量のアルコールがロイの中の何かを動かしてしまったのかもしれない。
「…だってこんなものをアイツに触れさせられない」
押し出されるようにロイは呟いた。
――いつか、叶えられたらいいと思って。
晴れた空の日だった。暖かな陽気の優しい季節。風の気配も優しくて、心なしかどの人の顔も柔らかかったように思う。
その声を聴いた日のことをロイは良く憶えている。そのころはロイはまだ東方に赴任したばかりで、副官であるリザと懇意にしてくれる中将以外にはさほど親しい人間もいなかった。中央からきた佐官、しかもイシュヴァールの英雄ともなれば、好奇の視線や口さがない抽象は常時向けられていたが、ロイは露ほども気にした様子も見せずに日々を過ごしていた。
そんなことにかかずらっている暇があれば他にやることはいくらでもあった。
急務だったのは、ロイの意を汲み、軍にではなくロイにつく人間を選ぶことだった。副官であるリザや、中央にいるヒューズのような。しかしあたり前だがそんな人物がそうそう容易に見つかるはずもなかったし、更にそれなりの能力も求めるのであれば尚更のことだった。
廊下の奥まった場所にある喫煙所。喫煙者では無いロイには縁のない場所で、足早に通り過ぎようとしたところ流れ出る紫煙と共に数人の若い男の楽しげな声がこぼれていた。ふと足を止めて耳を澄ます。
会話は上官はどうだ、とかどこそこの課の受付嬢が可愛らしいとか、実際は訓練とは違うな、など他愛もないどこか初々しいものでどうやらそこに居るのは、まだ歳若い連中だとわかった。
冗談交じりに交わされる言葉はどこか微笑ましく感じる。たるんでいる、とそう怒りを顕わにするものもあるだろうが、ロイはこういった会話が嫌いではなかった。勿論それも時と場合によったが、時刻は丁度昼の休憩時間でもあったしそんなひと時の憩いを奪うほど、傍若なことをするつもりもなかった。
盛り上がる場所をそのままに踵を返そうとしたその時に、彼の声が耳に入ってきた。
どんな話の流れだったのかは思い出せない。けれど、どうしてか彼が語った言葉は一言一句間違うことなく記憶していると断言できる。
「俺?そうだな…出世は多分出来ないだろうからさ」
水を向けられ応えた声は苦笑交じり。それでもその声音に卑屈は感じられなく、真直ぐだった。
ともすれば自身を卑下しているようにも聞こえたが、しかし彼が今の自分に誇りを持っているのがわかる。己を知っている声。
リザに、似ている。
どこも似たところなど無い声なのにそう思ったのはそのせいだろう。いつも傍らに控えて自分に揺ぎ無い忠誠を捧げてくれる煌く金の副官を思って小さくロイは笑った。
「だからさ、俺は俺のやれることをやって、それで家族を守れたらいい、親父やお袋や兄弟もだけどな、いつかは自分の子供とか」
声が柔らかくなった。気のおけない仲間同士との他愛もない会話の中で零された、夢というにはあまりに素朴な。
しかしロイにはそれは祈りのように聴こえた。
そっと室内を伺えば数人の青年達の姿が見えた。その中でも目立って長身の小麦色の髪を短く刈った青年が先ほどの声の主だろう。金の髪と好対照の真っ青な軍服の肩章を見れば階級は准尉。彼らの若さと階級から考えて士官学校を卒業して配属されたばかりの尉官だろう。
士官学校の卒業生なら最終年に戦場を経験する。ホークアイはイシュヴァールに送られた。しかしあの地に送られた士官学校生は彼女達で最後だった。彼らが送られた戦場はどこだったかと考えて、ロイは苦く笑った。
イシュヴァールの残党狩り、南部、アエルゴとのゲリラ戦を繰り返す密林。もしくは、ドラクマとの国境線争いを繰り返す北部の雪原か。思い当たる場所の枚挙に暇はない。
この国はいつも途切れなく戦いを繰り返している。削られていく命と、流される血と涙。
彼らも何かしらの形で既にそれを経験しているはずだった。だがその歪みに気がついているだろうか、軍事大国として他国を牽制し君臨するこの国の。
いつの間にか戦いが日常と化しているその異常。巧妙にひとが、世界が曲げられていることにどれだけの者が気がついているのだろう。
青年の声を心地よくロイは聴いた。暖かな何かが心臓に曲がれ込んでくるような感覚。
そういったものが溢れる世界で、ただ真直ぐにあることがどれくらい貴重か、本人が気がついていないからこそ美しい。口元に知らず笑みが浮かぶ。
きれいごとだというものも、おこがましいという者もいるだろう。だがどこか夢見るように語られた小さなこの願いを、純粋にロイは叶うことを願った。叶えてやりたいとすら。
そのために、きっと自分は出来ることがあるから。
伺うロイのことなど気がついていないだろう、青年達は声をあげて楽しそうに笑っている。ロイはそっとその場所を離れて踵を返した。
少し肩の力を抜こうとでてきたはずだった執務室に向かう。リザがは何時ものように顔を顰めながらも思ったよりも早く帰ってきた自分をため息で迎えてくれるだろう。
晴れた日だった。あの日に良く似た空の青。そっと掌をおいた下腹部に痛みはなかった。
前をみて、歩いていけるとこの時に本当に思った。
顔も瞳の色も知らない、その青年を幸福にしようと思ったのに。
「ヒューズ…私は、アイツの望みを叶えてやれないんだ」
泣くなよ、とはいえなくてヒューズは震えているロイの腕をなんどもさすってやる。抱きしめてやるわけには行かない、よりにもよってこの自分だけは今してはいけないことだと知っていた。
「あたり前の幸せだ。顔も知らない、声を聴いただけの時だって私はアイツにそれを渡したくて、あいつがどこか私の知らないところでもいい、幸せに笑っていることを願っていたのに」
「ロイ」
「アイツの声をもう一度執務室の中で聴いたときは心臓が止まるかと思ったんだ。あそこで」
その声をふたたび聴いたのは、一ヶ月ほど後のことだった。東方はイシュヴァールに近く、当然殲滅戦の英雄でもあるロイの身辺は非常に危険である。
当時ロイの護衛官はホークアイ一人きりの状態で(もちろん他にも護衛官として割り当てられた人物はいたが、それはホークアイやヒューズの目にかなうことはなかった)その状態を憂いたホークアイは、水面下で護衛官を探し続けていたらしい。彼女の(きっとヒューズも絡んでいたのだろうが)眼鏡に適った人物と引き合わされるその寸前までロイにはそのことは伝えられていなかった。
『私はこの者ならと思いました。ですが最終的なご判断は中佐、あなたがなさってください。』
ロイが反対するからだろうということではなく、先入観をロイに持たせないための判断だとホークアイは言った。
理路整然とし冷静な彼女だったが、どこか直感じみたことを信じている時もある。このときがそうで、彼女には何か予感じみた者があったのだろう。
そこまでされてはロイに拒否権は無かった。気に入らなければ護衛を断ってもいいと、そんな気楽さもあった。
だが今思えばあの時、断固として拒んでおくべきだったかもしれない。けれど実際にはロイは護衛官候補である士官と顔合わせをすることとなり、そうして結局のところは。
「あのときに…アイツだとわかったのに私は」
ハボックは今現在ロイの護衛官として、そうしてロイの忠実な手足として、彼女の傍にいる。
誰よりも、近くを許して。
「幸せになんてしてやれないのに、手に入れてしまいたかったんだ」
「ロイ、ハボック少尉は」
「アイツがいつか欲しいってそう言ったものはけして私には与えてやれないもの…」
「ロイ、ロイ。ハボック少尉はお前が好きなんだから」
絶望に顔を覆いながら言い募る彼女の痛ましさはヒューズにとっても身を切られるようで、そうじゃない、と繰り返し伝え続けた。
ハボックはお前がすきなんだ、ロイ。お前の傍にいられて幸せに決まってるじゃないか。それを否定するなよ。
幸せは自分しか決められないんだから。あいつはお前を好きで好きで仕方がないんだ。
「…知っているよ」
「なら、」
ヒューズとて自分がこんなことを言っても意味が無いことはわかっていてどれでも伝えずにはいられなかった。
ロイがそれを信じるかどうかはわからなかった。しかしロイからの返答を得て、それなら、と身を乗り出したところでふたたび届いた言葉に、ヒューズは今度こそ押し黙るしか術が無かった。
「…知っている、ヒューズ。そして私はハボックが好きだ。だから、私が耐えられないんだ。アイツがじゃない、私がきっと耐えられなくなってしまう」
「ロイ」
「…辛いんだ」
それがハボックの想いに応えられないことなのか、彼の望みを叶えられないことなのかは、あえてヒューズは問うことは無かった。
きっと、どちらもなのだから。
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