我ら、王の死を知らず・3
03
寝台の上で死ねるとは思っていなかった。
清潔な白いシーツは昨日気のいい宿の亭主が交換してくれた。体格の良い獣人の彼は体に見合った大きなその手の指先にある鋭い鍵爪で、床から頭が上がらない病人を傷つけることのないよう、そっと扱ってくれた。それが幼いころ、寝込んだ自分の額を撫でた父親の掌に良く似ていて、シモンは薄らと笑った。
長い間忘れていたことを今思い出す、その意味はなんだろうと考えて浮かんでいた笑みはどこか苦くなる。
走馬灯、というものがあると教えてくれたのはリーロンだったか。人は死ぬその前に、今までの生を振り返るのだと何かの折に聞かせてくれた。そういえば、先ほどまで見ていた夢はとても懐かしいものだった気がする。あまりはっきりとは憶えていない。でもそこには懐かしい顔がたくさんあって、とても大切だけどもう会うことのない人達がたくさん居た。
その中でひときわ明るい笑顔でカミナとニアが笑っていた。疵一つない、そう思ってシモンは深く安堵した。
ふたりの笑顔には、シモンが負った傷と同じものは見えなかった。おいていかれるという、息がとまりそうなくらいの苦痛を伴う醜い疵を、愛したふたりに負わせることがなかったというそのことに身勝手な充足を得た。
わかっては、いる。カミナもニアもシモンを置いて逝きたくなどはなかっただろうことも、先に逝く辛さ、さらにはそれをシモンに見せ付けるという苦痛も。
けれども一方では、カミナもニアもシモンよりも先に逝くことに安堵し、充足していたのだろうからそれもお相子というものだろうと結論つける。どちらがまし、と問うことは無意味だろう。どちらも苦しく辛く救いようがない。
しかし愛されていた自覚がシモンにはある。比べるべきモノではないと思っていても、シモンは自分を愛してくれた二人がこの痛みを知ることがなくてよかったとやはり強く思うのだ。
だって愛する彼らは先に消えてしまったのだから遺されたものはそう思うしかないから。
「お前には哀しい想いをさせるなぁ、ブータ…」
「ぶぅぅ…」
胸の上にあるごくわずかな重みに話しかける。そっと乾いた指先を伸ばせば、湿った暖かさが慰めるように指先を舐めた。
いつも一緒にいた一番付き合いの長い友人は、シモンがほんの子供だったころから姿を変えない。それが成長エネルギーを進化に転じていたからだと知ったのはアンチスパイラルとの戦いの最中だったが、それ以降ブータがあの人型をとることはなかった。シモンの肩を指定席にして、いつもその暖かさをシモンに伝えていてくれた。
ブータを遠ざけようと思ったことがないとは言わない。ブータは人型をとったことからもわかるようにその知能はただの豚モグラとは段違いなのだ。シモンら人間や獣人と何も変わらない。そのブータを哀しませることにシモンは尻込みをした。
いつからか、シモンは自分の体を蝕むものに気がついてブータのことを考えて血の気が引いた。その時愛したものに自分と同じ苦しみを味あわせたくない、という思いが脅迫観念のように自分の中にあることを悟った。
けれどシモンは結局ブータとずっと共にあった。かつては、濃い土色だった毛並みが、白っぽく色を変えていることに気がついたからだった。シモンが年老いたように、ブータも確実に時を重ねていたのだった。きっとブータも、もうそんなに生きられないとわかった。悲しみもきっとそんなに長くない。
「ごめんなぁー」
妙に間延びした声になったのはふざけたわけではない。呼吸が大分苦しくて、ゆっくりとしか音を発することが出来なかっただけだ。気にするな、とブータが湿った鼻面でシモンの指先に触れる。ひどくそれが暖かく感じて、ブータもどこか体調が悪いのかと心配になった。が、しかしすぐにそれが自分の体が異常に冷えてきているからなのだと悟って、苦笑が浮かんだ。
…終わりが、近いとわかった。
こんな風に自分だけにゆっくりと死が訪れるとは思っていなかった。なんと穏やかなんだろう。心残りといえば、胸の上にいる小さな命に哀しみを遺すことだけだ。
一つくらいなら、そんなに長くはないのなら(ブータにとっては、くらいや長短で、片付けられるものではないだろうが)哀しみを遺していくことをシモンは自分に赦してやれる。
ぶうう、とブータはやはり自分のことは大丈夫だから、と鳴いてくれる。本当に、心残りはないなとシモンは笑った。
胸の上で子守唄を歌うように鳴き続けているブータの声がだんだんと小さくなってきているようだ。
音が遠くなっているのだとシモンは気がついた。
このまま瞳を閉じれば、眠るように自分は息を引き取るのかもしれない。自分がもう持たないことはこの宿に入る前に主人に告げた。主人は少し驚いた顔をしたが、頷くと離れの一室(もう古くなって客を入れるには向かないらしい。シモンには充分に贅沢だったが)を気前良くシモンの終わりの場所として提供してくれた。持ち金はすべて渡してあったけれどそれを無駄に使い込むことをしない主人は人間の妻と共にシモンの面倒も良く見てくれた。
若いころ中央に…カミナシティに居たんだという彼らはもしかしてシモンが誰だったのかを知っていたのかもしれない。
だが、今はもうそれもどうでもいいことだ。ブータのことも頼んである。シモンの死を悼んでもブータはきっと残りの生を精一杯生きてくれるだろう。
…後は、誰もシモンの死を知らなくていい。特に、いつ果てるともわからない生を背負うことになった彼は。
彼だけには。
「…老いぼれたものだな、シモン」
「……そうだな…」
最期の最後でお前に追いつかれるくらいには。
「…本当にどうしていつも最後にひっくり返されるんだろうな、俺の幸せってのは…」
「貴様の考えることは大体底が浅い。ロシウの爪の垢でも煎じて飲んでおくんだったな。もう少し頭のいいやり方もあっただろうに…ああ、ブータ待たせたな」
「…ブータか…くそ、灯台下暗しってのはこのことか」
「どちらかというと飼い犬に手を噛まれるだろう」
ぶう、と聴きなれた声を苦々しく思いながらシモンは瞼を持ち上げた。そろそろ日も暮れようかという時間だったが、半分になってしまった視界にもヴィラルの金の髪はひどく眩しく映った。
遅くなってすまないと、ブータの小さな頭を撫でてから振り返ったヴィラルの顔は、シモンの記憶にあったものと寸分のぶれもなく重なった。
わかっていたことだけれど実際に眼にすると痛い。もう身体の感覚は殆どなくなっていたけれど、その姿は網膜に焼きつくような痛みをシモンに与える。
「わざわざこんな老いぼれの最期に会いにくることはないだろうが、暇なのか艦長様は」
「アレは赤毛の若造に譲ってきた。もう俺も艦長ではないぞ」
お前がただの穴堀シモンなのと同じだと言ってヴィラルがシモンを覗き込むようにして、ようやくはっきりとその顔がシモンには見て取れた。髪が短くなっていることを覗けば、あの日最後に話したときのままの顔で彼はそこにいた。
こうやって彼が変わらずに生きていくしかないと知っていたから、シモンに残されたものの中で一番暖かい場所に彼を置いてきたのだというのに。
「馬鹿だろう、お前は」
「そのまま返すぞ、その言葉」
同じようにして去っていった奴が何を、と呆れたような声を出すこの獣人を許されるなら殴り飛ばしてやりたかったが、もうそんな気力も残されていないことがただ口惜しい。何よりもこの場に現れることで、最期のシモンの心の平安を奪ったヴィラルが腹立たしい。
言葉にはしなかったが、隻眼が自分を睨みつける意味をヴィラルは知っていたのだろう。我侭を言う小さな子供にするように肩を竦めてから、あたり前のように言うのだ。
「俺のことを好きだと言ったろう?」
花嫁に口づけたその唇で不誠実に。
「俺の返事も聞かなかっただろう、貴様は。これが返事だ、冥土に持っていけ、シモン」
不意にヴィラルの輪郭がぶれたのは、限界が訪れ始めた視力のせいだけではなかった。意外なほどに端正な顔が、視覚が捉えられないほどに近くに寄ったその為なのだと気がついたのは、唇に暖かい感触が触れたからだった。
「人間の言葉で言えば、愛している、か。」
「…っこの、馬鹿野朗が…!」
たったこれだけの悪態をつくのに、息を切らせるシモンを眉を潜めてみて、ヴィラルはその掌をシモンの額に乗せる。
「…もう眠れ。俺がここにいよう」
「いらん。出て行くんだヴィラル。独りにしてくれ」
「断る」
「ヴィラル!」
「…俺はあの時貴様の我侭を聞いてやっただろう。貴様の勝手を赦してやった。だから今度は貴様が俺の願いを聞き入れるべきだ」
シモンの額に触れる掌がそのまま滑り、残った瞳を隠してシモンの視界を黒くした。恐怖が襲ったのは一瞬で、すぐに眼は暗闇に慣れてくる。そうすると暗くなった視界よりも暖かな掌のほうが意識される。
望んで得たものでなくとも、病んだ身にその体温が心地よいことには変わりはなく、しかしシモンは溢れそうになる安堵を押し殺さねばならなかった。本当にもう時間がないから、一刻も早くこの掌を払いのけなくてはならないと、必死に思考をめぐらせるが結局もうシモンには何も出来ない。
ただ後悔を胸にして息を止めることだけがシモンに残された選択肢だった。
「どうして、こうも思い通りにならない…全く最後くらい、赦してくれてもいいんじゃないか…」
しかしそれも崩されて、シモンは唸った。初めてここでもう走ることの出来なくなった自分の体を恨んだ。これでは、数十年前のように、ヴィラルの前から去ることも出来ないだろう。
けして短くない時を経て再会したヴィラルはあのころにはなかった落ち着きのようなものを感じさせて、充分に曲者になった自覚のあるシモンにも、もう騙されてはくれないだろう。
なにより、そうする力がもうシモンにはなくて、諦めるしかないことが変えようのない現実だ。
「こんなにお前が莫迦だとは思わなかった」
それでも、口惜しさに詰る言葉が口を吐くのを止められはしなかった。完璧だったシモンの計画はこの男のおかげで(というよりもブータの)崩れることになった。シモンの死を知ってカミナシティに残してきた愛すべき人たちはどれほど哀しむのだろう、と考えると実際にはもう瞼を開けていることすら辛いというのにおちおち目を閉じることも出来ない。第一、ヴィラルは、彼の言葉とシモン自身の言葉を真実とすれば、シモンの死によって最も苦しむ者なのだ。さらに言えば、彼には永遠ともなるだろう膨大な時が待っている。
ロージェノムほどの強靭な男を倦怠に落とし込むほどの苦痛だ。少しでも痛みを和らげたかったのに。
「莫迦はお前だといっただろう、シモン。勝手に決めるな。これは俺が望んで得た時間だ。大体先に勝手をしたのはそっちなのだからとやかく言うな、往生際の悪い」
呆れて言うのだが、シモンからは何の返事もない。子供のように拗ねているのか、それとももう言葉を出す気力もないのかわからなかったが、かまわずヴィラルは言葉を続けた。
どちらにしろ、時間は殆ど遺されていない。
「…あの男も、ニア姫もお前の中に疵を残しただろう。見事なものだ、アンチスパラルを退けたお前に逃げを選ばせるくらいの痛みだからな。…間違いなどというなよ、お前は逃げたんだ」
「…ヴィラル」
随分と苦しそうに咎める響きで名を呼ぶ声に、ヴィラルは残された時間の少なさを再度実感した。
「聴け。お前は俺のために離れたわけではないだろう、同じ疵を残す自分が恐ろしかっただけだな、自分がその罪を冒す者になりたくなかったんだろう」
だがな、と続くヴィラルの声は穏やかだった。
陽がもう殆ど姿を消して、東の空の辺りはもう黒が混じった群青色に染められていて、星が瞬き始めていた。
きっとあの星が中天に昇るころには、シモンはもう居なくなるだろう。垣間見たその光に、もう少しだけ有余を願う。
痛みを与えるためにここまできたわけではないので。
「人をあまり侮るな。…俺はお前の中に住むカミナや、お前を包んでいるニア姫のようにはなれない。…同じでは赦せない。そうだろう?」
同意など返るはずもないだろうとは思っても、否定はしないことはわかっていた。認めはしないだろうが、同じような想いをシモンはカミナに抱いていたはずだから。
「だから俺はあのふたりには絶対に手に入れることの出来なかったものを奪いに来た。…いい気分だぞシモン。何しろあいつらふたりだけでなくほかの誰も手に入れることが出来ないものだからな」
ブー!と、自分を忘れるな、とばかりの抗議の声が聞こえた。シモンの胸元でブータが毛を逆立ててヴィラルを睨んでいる。
小さく笑ってブータの頭を撫でてやる。お前は別だろう、それにすぐにお前もこいつを追いかけていくくせに、と宥めれば不満げではあるが抗議の声はなくなった。いい子だ、ともう一度ブータを撫でてやってから視線を戻せば、驚愕の瞳でシモンがヴィラルを凝視していた。
思わずヴィラルは笑った。
どうやらシモンはヴィラルのことを好きだなんだと言いながら、その実ヴィラルがどれほどシモンに対して執着しているかわかっていなかったらしい。愚かなことだ。少しばかりではなく腹立たしいが、それを知っていればこんな下手をうたなかったろうに、と思えば赦してもやれる。
下手をすれば、カミナとニア姫の執着もわかっていないだろうが、親切にそれを教える気もなかった。気がつかせなかったのは彼らの失策で、きっと後悔をしたことだろう。
だからヴィラルは間違えてはならない。己の望んだ結末を手に入れて生きていく。
「螺旋王も最期を迎えられた。俺もいつかきっと死ぬときがくるだろう、だからもう休め。…俺はここに居る」
言いながらシモンを見れば、驚愕に見開いた目を力なく閉じるところだった。絶望したような仕種に眉を潜めたが、シモンは一つ大きな溜息を吐くと唇を苦笑の形に歪めた。
それが思いもよらぬほどおだやかな印象を与えて、今度はヴィラルが僅かに眼を瞠る結果となった。
「……莫迦だな」
同じくらいに穏やかな声が、何度目かわからない言葉を吐き出した。
同じようにヴィラルも返そうとしたがやめた。業腹ではあるが、莫迦なことをしている自覚はあった。ただ、カミナやニア姫、ロシウやシモンを取り巻く人間たち、そうした者達を見続けてこれが感情というものであるとわかっている。正しくもないし、綺麗でもない愚かなもの。
しかし全てを動かすもの。螺旋の中心。
「…もう眠れ」
「……ああ」
額にかかる幾分か白いものが混じった髪をかきあげてやる。現われた額に口づけを落す。するするとシモンの緊張が解けてくるのが唇から伝わる。
同時に唇に移る熱をきっと最期まで忘れないだろう。
「…お休み……ヴィラル…」
「おやすみ」
子供のようなあどけない声に応えると、陽が落ち切ったのだろう小さな部屋が一気に暗くなった。
眠るには丁度いい。
「良い夢を」
囁きは、まだ暖かい唇に。
我ら、王の死を知らず(了)
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