夢見がちなヒーロー
「…なんだお前この怪我は」
「ちょっと下の奴らともめました」
ハボックが応えると目の前の上司は、数秒絆創膏が貼り付けられたハボックの鼻っ柱を見つめると、フン、と鼻を鳴らして再び書類に目を戻した。
タイミングを見計らっていた傍らの美貌の副官が、さっとサインの終った書類を新しいものと取り替える。
「みっともない。明日にははがせよ」
「…イエス・サー」
「下の奴ともめてどうする。お前は上官だろう、下に信用されない上司などくずだ。使えない犬は私は要らんぞ」
「イエス、サー。本日中に解決します。つきましては、うちの隊の二、三人しばらく休暇を頂きたいと思います」
「…有給が余っているなら良い。その間の任務に支障がないようにしろ。それから労災は出ん」
「……いたいっすねそれは」
「面倒見るのが上官の務めだろう」
「うわ、アンタ俺が同じことになったらちゃんと面倒見てくれるんすか」
「何度も言わせるな、私は使えない犬はいらんと言ったろう」
溜息が一つ。今度は目も向けられることはなかったが、それでもハボックは綺麗な敬礼を決めると、踵を打ち鳴らして上官の執務室を後にした。
金髪の、美貌の副官の横をすり抜ける際、氷のような温度の声が囁いた。
『goodboy』(いいこね)
飼い犬を褒める時のように一言囁いた彼女は、その美貌に壮絶な笑みを浮かべてハボックを労った。
同じ笑みが、自分にも浮かんでいることを彼女の瞳に映る自らの姿で確認して、ハボックは扉をくぐり、そのまま医務室に向かう。そこには先ほどハボックが鼻頭の擦り傷と引き換えに叩きのめした屈強な男が数人、ベッドに伸びているはずだ。
じん、と拳に暴力の名残が滲む。
ハボックは笑ってもう一度拳を握りしめると、躍るような足取りで医務室に向かった。
「…誰がボスなのか思い知らせないと、なー」
あーあー、面倒くさいこと。
安い正義感はきらいじゃない。それを振りかざすのも、まあヒトとしてはあたり前で可愛らしい行為だと笑っていられる。
だがそれだけならこの群れには必要がない。
だからいま、彼らの根幹を形作る安い正義感を屈辱的なまでに叩きのめしてやろう。圧倒的な力をもって。
一度折れた心で、それでもその正義を叫ぶときは。
そこまで考えたところで医務室についた。ハボックは一つ首を振ると、口元の笑みを深めてドアを叩く。
するりと扉の向こうに長身が滑り込んで後の数十分は永劫に空白となり、その日医務室の白いベッドで横になっていた男の中で軍務に復帰したのは僅かに一人のみとなる。
その彼はしばらくは狂犬のような目をしていたが、いつの間にかジャン・ハボック少尉の下精鋭と呼ばれる隊員の一人になったという。何があったと、酒場で彼に尋ねた同僚はこんな答えを彼から貰ったという。
『ごっこ遊びだ。一度はしたことがあるだろう?ヒーローごっこの仲間にいれてもらったのさ』
そう笑って、グラスを煽る彼の首、頚動脈の丁度上に薄らと残る一筋の切り傷。同僚はどこかでそれを見たことがあると思った。
浅くもなく深くもないそれを、どこで見たのか彼が思い出したのは、ロイ・マスタング中佐が大佐になったその日だった。堅苦しい式典を終えて、軍服の襟を弛めたジャン・ハボック少尉の首筋にくっきりと残るその傷。友人と良く似た傷はしかし、友人のそれよりも長く色濃く…身に負ったときは致命傷ともなりえたろうその傷にぞくりと背筋が震えた。
友人の傷は、ハボックのそれと似ている。しかしハボックのそれも、また別の何かに似ている、と彼が夢見がちに記憶を探っていると、ハボックの傍らの上官…マスタング大佐が急に振り返り、そして彼が自分達、主にハボックを見ていると知るとにこり、と笑みを浮かべた。
ああ、あれは、あの傷は首輪だ。
彼は脚が竦んでいた。そうこうする内に、マスタング大佐とハボック少尉の周りを彼の同僚を含んだ所謂マスタング机下の者達が囲んだ。そうしてその彼らの眼を見たとき、彼は恐怖に耐え切れず踵を返すと、その場を走り去った。
それ以降、彼はあの同僚と連絡を取っていない。
『ヒーローごっこに入れてもらったのさ』
あの日の同僚の言葉が甦る。
その意味を考え直そうとして、家路を急いだ。
自宅で待つ、妻と息子の瞳を速く見たいと思った。
そして息子にはヒーローにはなれないんだと伝えようと思った。
あんな狂人の目を、息子には持って欲しくない。
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