愛というものについての見解。1
〈だれに知られることなく愛する女の場合。〉
泣いている。
付き合いは短くなかった。何しろ彼の芯に根を下した錬金術(それが良いものだとは思えないのは、もう仕方のないこと、自分の性別を嘆くようなものに似ている)の師の一人は実の父だったし、いまや彼の二つ名となったその焔を与えたのは、私の背に刻まれた(今はもう焼き潰してしまってその全容は彼の脳に刻まれるのみだったのだが)術式だった。
加えて、再会したのはこの世の終わりとも取れる戦場で(運命なんて言葉で片付けることはしたくなかったが、その奇跡を他に現す言葉を知らないので仕方がない)彼のその無謀な、子供みたいな(しかしだからこそ何よりも強い)理想、いや祈りのような願いを知り、そしてその背中についていくと決めた。
その感情の真意は考えたことはない。考えなくても知っていたが、それはこの胸に秘めて、そう、墓まで抱いていくと決めた。私と彼との間ではそうすることが適当だと思われた。私はきっと、この人がいつか美しく傷のない白い手をとるときも、笑って傍らで祝福し、その柔らかな存在を彼と同様守ると決めていたし、きっとその存在を愛することも出来る。
それは虚勢でも何でもない私の真実だ。私は女だからそれが出来る。
彼が愛するひとを持つその幸福の前に、私の感情など些細なものだった。
この人がどれほどの罪人だろうと、いつか愛し、愛される未来が来ることをどうしてか疑っていなかった。そしてそれは私の想定していた者とは若干異なったが、それでも叶えられようとしていると思っていた。
しかし今の状況をどうしたらいいのだろう、こんなことになるとは思っていなかったから。
――…触れてこない、私に。愛していると言うくせに。
リフレインする、涙声。この人が子供みたいに泣きじゃくるのを見るのは初めてだった。迷子になった子供よりも尚悲痛に、普段はけして飛び越そうとはしない、私との境界線を無視するくらい。
母親に抱きついて助けを求める子供のように泣いた彼の身体は異常に熱くなっていて、息からは酒精の気配がした。こんなになるまで彼はどこでどうしていたのか、一人にしたのかと考えて、そんな事よりも愛しているくせに傷つけたのだという事実にある人物に対しての眩暈がするほどの怒りが浮かびその制裁の方法を思わずシュミレートする。
が、しかしそれよりもこの大きな子供のような人を宥めることが先だと思いなおし、自分に出来る限りの優しい声をかけ続けた。
腕の中で他の人を想って泣く、世界で一番大事な男に胸が痛まないわけではないけれど。
彼のためなら、部下にも友にも母にもなれるけれど恋人にだけはきっとなれなくて。(白状すれば、彼に愛されたいと思わないわけではないのだけれど、それがけして叶わないことも知っている、だからこそ彼はいまここにいるのだから)
だから私に出来ることはこうやって彼を抱きしめて、そうしてやがてここに来るだろう男を思い切り詰ることだろう。
私にはその権利がある。
彼を愛していて彼に愛されているのに哀しませる男を糾弾すること。
それは彼を愛するおんなの当然の権利で、そして私はこれが自分の愛の形なのだと自らに言い聞かせながら、奥歯を軋ませて男を待った。
愛というものについての見解。 2
(愛されることに確証を求めて泣く錬金術師の話)
今日も、また。
好きだという。好きだと言って笑って抱きしめて口づけを。その感情を疑うべくも無い柔らかさで、注ぎ込まれる。
胸の底に掬った疑念は、その感覚に一瞬にして掃き消されていくというのに。それなのに、触れてはこない。
この身体の、奥ふかくまでは。
「…だめ」
抱きしめあって、口付けはいくつ交わしたのかも分からない。注がれる感情にさらされた身体と精神が求める、もっと深くと。
もっとふかく、確かな感覚でもって、それが痛みでも構わないからこの身体に価値があるというのならお前を感じられる感覚が生きているということだけなのだから。
だからどうかと願うのに、それはかなえられることはなくて。
「泣かないで、大好きですから」
それならどうしてと、詰るように聞き返してしまうのも当然ではないだろうか。繰り返される拒絶に、プライドなんてものはとうの昔に崩れ果て、まるで母親に縋る幼子のように泣き喚いて訴える。
どうして抱かない、触れない。好きだというのならどうして。その言葉が嘘でないのなら、どうして。
閉じ込めるみたいに強い腕が泣きじゃくって火照った身体を痛いくらいに抱きしめてくる。猫のように髪に頬を擦り付けてくるのもいつものこと、そしてそのあとにはつむじに何度も口付けを。
興奮してまともな思考が出来ない頭ですら次の行動の予測が出来るくらいに、このやり取りが繰り返されている事実が悲しい。
「嘘じゃない、大好きです。俺が欲しいのはアンタだけです」
本当です。信じて。
やがてあわせられた視線の先の、彼の青い瞳には言葉とおりに真実しか浮かんでいない。身体をより密着させて、昂ぶっていることも教えてくれる。
だったら、いいから。
この身体にお前の熱を。
この身体の意味はそれだけ。
「アンタが欲しいんです。だからまだ駄目」
それなのに、やはり彼の口から紡がれるのはそんな言葉で、そんな残酷を繰り返すくせにどこまでもやさしい腕に包まれて、与えられないことに絶望しながらそれでも。
「…愛しています」
その言葉にただ縋り、泣きながらその熱を乞う明日を思った。
愛というものについての見解。3
(愛しているからと笑う欲深な男)
やっぱり。
「迎えにきました」
入室の許可も取らずに入り込むのはもう既に自分の専売特許かもしれないと思う。気配は消してこなかった。必要なかったから。
「来なくてもけっこうだったのに」
「来ますよ、そのひと俺のですから」
その名に相応しい猛禽のようにするどい視線が刺さった。
「泣かすくせに」
「泣かすつもりは無いんですけどね、別にいいでしょう?その人俺のなんだから」
「勝手を言わないで」
「勝手もなにもその人がいいって言ってんだから、中尉がとやかく言うことじゃあありませんよ。さ、いいから早くその人渡してくださいよ、俺のなんですから」
告げれば隠すこともなく突き刺さる殺気。女は怖いって知ってたけど、この人はそんなもの越えてるだろうなって思う。覚悟を決めている女の眼って言うのは本当に恐ろしい。
でもそれも無力ですよ、中尉。
「愛されてるのは俺なんですから」
残酷に告げれば唇をきつくかみ締める。怖いけれどやはりこの人は美しいおんなのひとで、やさしくてきれいで。本当はもろくて傷つきやすいってことも知ってる。
この瞬間、ひどく傷つけたことも。
「俺の、ロイなんですから」
ああ、はしばみ色の瞳から涙がこぼれそうだ、なんて痛ましい姿だろうって本当に思うけれど。
かわいそうなんて、思わない。
「…あなたのものなんかじゃない」
外敵から子供を守ろうとする母親のように、膝に乗った身体をきつく抱きしめて離すまいとする。それが、彼女がどんな愛情を持っていようと、彼が俺を愛している限り母親の抱擁にしかならないって分かっていても、俺は許せないから。
今、あなたは俺の敵だ、だから。
「なんですか、中尉?抱いていないからまだ俺のもんじゃないとか言うわけですか?は…寝言も大概にしてくださいよ、この人のどこを見たらそんなこと言えるんです?」
どこまでも俺は残酷になれる。
「ねえ何でその人は泣いてた?」
「俺に触れられないって泣いてたでしょう?」
「それが辛いって泣いてたんでしょ?」
「俺のこと愛してるのに、って泣いてたんでしょうが?」
ああ、顔面も蒼白だね。震えて本当に痛々しい。本当の美人はどんな顔をしても美しいって言うけれど本当ですね、中尉。
かわいそうなんて死んでも思わないけど、今のあなたは本当にきれいですって、それだけは心から思うよ。
そして。
「俺のことだけ考えて泣いてたんだよ」
あなたの前で泣いたロイはきっとそれ以上に綺麗だったろう。
「俺のものでしょう?」
ほろり。
綺麗な綺麗な瞳からついに涙が頬を伝って、落ちていく。水晶みたいな雫が、膝の上の黒髪にこぼれる様すら許せなかったから、力の抜けた身体から強引に引き剥がして抱き上げた。
泣きはらした目元が赤く染まっていて、かわいそうで切なくて、そして愛しくてたまらない。
俺のことだけを思ってこの人はこんなにも綺麗になっている。
それが果てしない幸福。
「…かなしませないで」
愛しい人を抱き上げてきびすを帰した背中にかかった声。ひどくかすれていて、振り向かなくても彼女が腕の中のこの人が数刻前にそうしたように泣きぬれていることが分かるけれど。
「それだってこのひとは愛してるんですよ」
それでも俺は容赦なく残酷をつきつける。
俺だけを愛している人の美しい泣き顔を抱きしめていたその、たおやかな白い腕が許せないから。
「俺のことだけ愛してる」
彼女のその想いすら許しがたいから、愛しい彼に口付けを落として、彼女の心が死に至るほどの傷を。
「俺だけのロイ」
彼だけを愛しているから。
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